クラーク博士の紙芝居

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紙芝居「さっぽろとクラーク博士」
           元さっぽろ雪まつり資料館 館長 松原 晴哉氏のご紹介
           (平成17年(2005)7月26日発行の「HOMAS」ニュースレター NO.45より転載)
 「さっぽろ羊ヶ丘展望台」の雪まつり資料館長 松原晴哉氏が紙芝居「札幌とクラーク博士」を始められたのは、平成4年(1992)4月16日、それは奇しくも、クラーク博士が115年前の明治10年(1877)に「Boys be anbitious!」の言葉を残して離札した日でした。特別の思いを込めてスタートされたとのことです。
 それ以来約12年間、毎年5月~10月の観光シーズンには、毎日1日約4回の講演を続けてこられました。
 シルクハット・フロックコートにあご髭のスタイルで音吐朗々とした語り口は、「丘の上のクラーク像」とともに日本のみならず、世界各国からの観光客に大評判になっておりました。
 今年3月に、体調の都合でご退職になり、そのまま今シーズンは中止になっていますので、あの羊ヶ丘展望台の名物「紙芝居」を惜しむ声が高まっています。
 このように地道に、永年にわたり、貴重な国際交流の推進者としてご尽力された松原晴哉氏をご存知の方は多いと思いますが、しかし、意外にこの紙芝居「さっぽろとクラーク博士」のことを知らない方もまた多いのではないかと思います。
今年2005年は、北海道・マサチューセッツ洲姉妹提携15周年の年にあたりますので、ここにご紹介申し上げたいと思います。
 ご本人の「回想記」もご寄稿いただきましたので掲載いたします。
回想記
   「クラーク先生との10年余りの日々」    元さっぽろ雪まつり資料館 館長 松原晴哉
 札幌市の観光名所羊ヶ丘展望台に、右手を高く揚げ、永遠の真理を示しているクラーク博士の銅像が立っている。
 北海道開拓使の要請でクラーク博士が、札幌を訪ねたのは明治9年(1876年)7月31日、当時の札幌は人口わずか2,600人たらずの小村であった。
 札幌農学校の開校に細かい校則を定めず、ただ一言「紳士たれ」と述べたクラーク先生は、敬虔なクリスチャンとして又、学問と実践を唱える熱心な教育者として、期待に応え、その教えは「青年よ、大志を抱け」の名言と共に長く北海道のパイオニア精神の支えとなって来たのである。
 札幌滞在わずか八ケ月半、教え子達の中から近代日本を背負う優秀な人材が輩出した事は、クラークの教育的影響がいかに大きかったかを物語っている。
 教育の荒廃が叫ばれている現代、クラークの原点に戻り、開拓者魂を全国に伝えたいと考えた札幌観光協会は暗中模索ながら、その数々のエピソードを紙芝居として上演することとし、平成4年4月16日(クラークが札幌を去った日)「札幌とクラーク博士」がスタートしたのである。
 当時、羊ヶ丘ウエディングパレスの館長であった私に白羽の矢が立ったのは、三十数年の商社マンとしての生活にピリオドを打ち、第二の職場に至るまでの自由な時間に、気分を変えるために伸ばしてみた黒髪が目に留まったこと、声が大きいこと、クラーク先生と体格が似ていたことによると言っていい。さりとて紙芝居など演じたこともない私にとって館長職と当時10時・11時・14時・15時の一日4回の上演には、いささか自信が持てなかった。
 黒のフロックコートにシルクハット、白手袋にあご髭といういでたちはともかく、セリフを暗記し、人前で話することに慣れなくてはいけない。スタートの初日は未だ肌寒い曇り空であったが、それでも50人の観客が拍手で迎えてくれた。
 クラーク像の横に、高さ2メートル・幅1メートルの特注の木の台を据え、新聞全紙大の発砲スチロールに手書きの絵を貼り付けた大型の紙芝居である。
 エピソードは、
 ①遠くアメリカ、マサチューセッツより日本に太平洋を渡る、外輪船上のクラーク博士に始まり、
 ②小樽港から馬を飛ばして4時間、札幌の街並みを見下すクラークの一行、
 ③札幌農学校の入学式で日の丸を背に「紳士たれ」と学生に挨拶をするクラーク、
 ④「右手にペンを左手に鍬を」と学問と農作業の実践を奨励し、
 ⑤休み時間には雪球をぶつけて体をほごす風景、
 ⑥生徒達と手稲山に雪中登山で、新種のクラーク苔の発見、
 ⑦酪農王国北海道のシンボルとなった「モデルバーン」の紹介、
 ⑧イエスを信じる者の誓約、
 ⑨そしていよいよ、島松駅逓でのクラーク別れのシーン等前口上を入れて全10景である。
 上演時間約20分。身振り手振りで解説し人々が興味を持って聞いてくれたことに安堵した。大きな拍手と共に、家族が花束を持って初日の成功を祝ってくれたのが、昨日の事のように思い出される。
 羊ヶ丘は標高約147メートル、テレビ塔と同じ高さであるため風が強く、少しくらい雨が降っても、また炎天下でも、一度始めた事は止められない、新聞・テレビ・雑誌に紹介され、観光客にも徐々に知られるようになって札幌の夏の風物詩となるのにそんなに時間はかからなかった。
 始めた頃、五千円札の新渡戸稲造がクラークの影響を受けたことを説明しても知る人は少なかったことにショックを受け、クイズを取り入れることにした。
 例えば、「当時の札幌の人口は?」・「右手にはペンを左手には?」・「五千円札の肖像は?」・「クラークの札幌滞在期間は?」等である。この中で、クラークの滞在期間がわずか八ケ月半という正解が少ないのに、改めて驚いた。
 クラークの誕生日7月31日生まれの人にプレゼントをすることにしたり、雪まつりグッズをクイズの景品にしたりなど色々工夫して喜んでもらった。
 紙芝居が済んでも会場の余韻は残っている。握手を求められたり、一緒に写真を撮られたり、赤ちゃんを抱いてくれと頼まれたり、私をクラーク先生と思い込む人も出てきて、私自身もほとんどクラーク松原の意識になったりもした。
振り返ると、私の人生はクラーク先生との不思議な縁で豊かに彩られたと思う。
 また、多くの人々にクラーク博士の素晴らしさを伝えられたことを光栄に思い、この10年間の充実した日々に感謝している。
 (北海道・マサチューセッツ協会会員)